香川県・ネット・ゲーム依存予防対策学習シートに関する公開質問状

香川県教育委員会は、2020年に発表したネット・ゲーム依存予防対策学習シートを新たに改訂しました1)。このシートは小学生から中学生を対象として、「依存状態に陥ることを未然に防ぐ」ことを目的として作られたとされています。しかし、このシートには少なくとも下記5点の医学的・科学的な過誤や問題点があります。

  1. 「ネット依存症」が精神疾患のように扱われている
  2. ネット依存症のスクリーニングツールとして“Young Diagnostic Questionnaire for Internet addiction(YDQ)”が用いられている
  3. 「脳への影響」として示されている画像と説明に誤りがある
  4. 「スマホ等の利用時間と正当率との関係」のグラフが恣意的
  5. 「やめらないもう一つの原因」と書かれたパートの説明に誤りがある

1. ネット依存症の扱い

「ゲーム行動症」はICD-11(疾病及び関連保健問題の国際統計分類)に収載されていますが、「ネット依存症」はどの国際的な診断基準においても精神疾患と認定されていません。それ故に、本学習シートでネット依存症が精神疾患であるかのように扱うことは、医学的・科学的に誤りです。この点に対して香川県教育委員会としての見解をお聞かせください。

2. YDQの扱い

先述の通りネット依存症は精神疾患として医学的・科学的に認められていないものですから、その診断方法は確立していません。従って、一部の研究者が主張するネット依存度合いであれば「測定」をすることもできますが、国際的な医療従事者や科学者が合意できる客観的な依存度を計測するようなことはできません。地方行政府や教育関係者が、一部の研究者の主張に過ぎないものを、医学的・科学的にコンセンサスの取れた客観的事実であるかのように用い、ましてやそれを根拠として市民の正常と病気を弁別していくような姿勢であるのならば、非常に大きな問題があると言えるでしょう。さらに、この学習シートの内容はもともとのYDQから勝手に改変されたものであり、科学的な根拠はさらに曖昧模糊としたものになっています。この点について、香川県教育委員会としてのご意見をお聞かせください。

3. 脳への影響

小学生版の学習シートには、脳の断面写真が示され、「長時間ゲームをし続けたことで変化してしまった」と記述されています。参考文献として挙げられているYao et al.(2017)においては、ゲームを長時間プレイしている群と対照群において脳の5つの部位における体積の比較をしていますが、ゲームプレイが脳の変化の原因であるということを述べているわけではありません。研究結果の一部を抜き出して原著論文から推定できない因果を述べることを、教育を司る県教育委員会が先導していることについては、研究者として非常に大きな危惧を覚えます。この点について、香川県教育委員会としてのご意見をお聞かせください。

4. スマホの利用時間に関するグラフ

シートには「スマホ等の利用時間と正答率との関係」と題したグラフが掲載されています。説明文が不足しており何についての「正答率」かこのシートからだけでは読解が困難ですが、これは県で行われている『香川県学習状況調査』から取られたデータを基にして、長時間スマホを利用する生徒は学習に悪影響があるのだということを示そうとするものだと考えられます。しかしながら、このシートに掲載されたグラフでは「スマホ等の利用時間」と「成績」という2つの変数しか比較されていません。同様の形になるグラフは他に16項目もあります。例えば、「朝食を毎日食べる」「ものごとを最後までやりとげる」「学校のきまりを守る」「係や委員の仕事など自分の役割をきちんと果たす」「人の役に立つ人間になりたい」などです。つまり、成績が悪くなるという問題を説明する要因には、スマホ利用以外にも様々な変数が観測されていることになります。高校までの統計学でも、こういった場合には擬似相関を疑い、第3の説明要因がある可能性を検討するよう指導・教育しているはずです。このような統計データについての恣意的な運用・解釈について、香川県教育委員会としてのご意見をお聞かせください。

5. やめられないもう1つの要因

シートには「ゲーム等をして快楽を感じると脳内に大量のドーパミンが出ます。毎日ドーパミンが出ると脳は段々感じにくくなり、より長い時間ゲームをしないと満足できなくなるので、時間のコントロールが難しくなります」と書かれています。これは心理学でいう「脱感作」のメカニズムだと推測されます。しかし、食事や瞑想でもドーパミンは放出されます(Bassareo & Chiara, 1999; Kjaer et al., 2002)。もし「毎日ドーパミンが出ると脳は段々感じにくく」なるのであるならば、毎日より多くの食事を取ったり、より多くの時間の瞑想を行わないと満足できないということが起きるはずですが、これは明らかに現実的ではありません。確かにゲームプレイによってドーパミンが増加すること(Koepp et al., 1998)やドーパミン受容体に関して一時的な脱感作が起きるエビデンスは確認されていますが、学習シートで説明されている心理学的な脱感作とは異なるものです。依存症が生じるメカニズムは複雑であり依存症のメカニズムと脆弱性についてまとめたRedish, Jensen & Johnson (2008)においても、脱感作仮説は一顧だにされていません。ゲーム依存症の機序としてこの脱感作仮説を採用したことについて、香川県教育委員会としてのご意見をお聞かせください。

参考文献

  • Bassareo, V., & Di Chiara, G. (1999). Differential responsiveness of dopamine transmission to food-stimuli in nucleus accumbens shell/core compartments. Neuroscience, 89(3), 637–641. https://doi.org/10.1016/S0306-4522(98)00583-1
  • Kjaer, T. W., Bertelsen, C., Piccini, P., Brooks, D., Alving, J., & Lou, H. C. (2002). Increased dopamine tone during meditation-induced change of consciousness. Cognitive Brain Research, 13(2), 255–259. https://doi.org/10.1016/S0926-6410(01)00106-9
  • Redish, A. D., Jensen, S., & Johnson, A. (2008). A unified framework for addiction: Vulnerabilities in the decision process. The Behavioral and Brain Sciences, 31(4), 415–437; discussion 437-487. https://doi.org/10.1017/S0140525X0800472X

1) https://www.pref.kagawa.lg.jp/kenkyoui/gimukyoiku/syokai/sonota/internet/gakusyusheet.html